★☆ Final Day

電気の切られた真っ暗な廊下に、
スリッパを引きずって歩く誰かの足音が響き渡る。
日中のあの喧噪からは想像もつかない、
この学校内の静かさに浸っているかのように、
その足音は不意に止まり、
しばらくするとまた歩き出すのだった。

男は、その目に一つの光の筋を見た。
それはある教室から漏れてきているようだ。
一気に現実に引き戻されたことに落胆しながら、
手に携えていた懐中電灯の明かりを
消してからその扉に手を掛けた。

「水原、まだ残っていたのか」

男は、『生徒会室』という札の掛けられた
教室の最奥の机に腰掛ける、
眼鏡の男子生徒に声を掛けた。
呆れたような、けれどどこか楽しそうな声だった。

水原、と呼ばれた男は、
書類が積み上げられた机で
何かをひたすら書いているようだったが、
男の声がすると名残惜しそうに顔を上げた。

「ああ、嶋先生。
すいません、これが終わり次第帰ります」

本当には申し訳ないと思っていないのだろう。
水原は、乾いた声で対応する。

嶋は懐中電灯を携えたまま、
教室内を見回しながら水原に近づく。
彼はさほど気にしていないらしく、
一度顔を上げたかと思えば、すぐにまた書類に視線を落とした。

「……文化祭も、もう終わりか」
ぽつりと嶋が呟く。

その言葉に、水原も最後の一筆を書き終わったのだろう、
書類を紙の山に載せると、嶋の方を見て口を開いた。

「僕の生徒会長としての大きな仕事も、これで終わりです」

少し寂しげな色を含んだ声に、思わず嶋は振り返る。
しかしその顔にはすでに笑みが浮かんでいて、
彼が本当にそう思っているのかどうかは、判らないままだった。

「お前が生徒会長になって、苦労させられたよ」
嶋は苦笑する。

「すみません、
僕、根っからの完璧主義者ですから」

少し目を伏せながら、
水原は自分の鞄を手に取り、まだ未記入の書類と、
各所に設置されていたポストから集めてきた
アンケートの束を丁寧に鞄に詰め込む。

「ああ、本当にな。
……けれど、今年の文化祭は本当にいい物になった。
お前のお陰だとみんなが言っているよ」
「光栄ですね」

ぱちん、と鞄のボタンを閉めると、
水原はそれを机に置いて、
教室の真ん中に配置された机の群に歩み寄る。

「……僕も、いい役員に恵まれたと思っています」

消しカスや落書きの残った机の一つに触れて、
水原はそう言う。
机をじっと見つめたまま動かない。

水原はあまり表情の読みとれない男で、
彼が現在寂しいと思っているのか
そうではないのか、やはり判らなかった。

「白川と加藤は、あの後うまくいったのか?」
「……そう、ですね。今日は一緒に帰ったと耳にしました」
「そうか」

暫くの沈黙があった。
白川と加藤、というのは、生徒会役員であり、
随分前から加藤が白川に
猛アタックしていたことは周知の事実だった。
実際こうして教師にまで知られているのだから。

学校中が文化祭モードに入ると、
水原は事あるごとに二人を組ませて、
あれこれと指示をしていたようだった。
そして最終的には、加藤が生徒会室で告白できるように、
一時間ほどそこには立ち寄るな、
と役員全員に言い渡していたのだった。

「なんで、お前あんなことをしたんだ?」
尋ねると、水原は自嘲気味に笑って、
ただの暇つぶしですよ、と口にした。
「お前らしいよ」
嶋がそう返すと、
水原は小さく、でしょう、と言って笑った。

そうして机に乗せていた鞄を手にとって扉に向かった。
取っ手に手を掛けたとき、水原は思い出したように振り返る。

「先生、さようなら」
嶋は水原と向き合って彼に笑顔を見せる。
「ああ、今までご苦労様」
その言葉に水原は目を細めて微笑んだ。

彼が教室の外へ姿を消した後、
嶋はゆったりとした歩調で扉に近づき、
懐中電灯に明かりを灯してから、
生徒会室の電気を消した。

誰もいなくなった生徒会室に、
街灯の明かりだけが差し込んでいた。



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